巻簡易裁判所 昭和31年(ろ)6号 判決 1960年7月15日
判 決
被告
無職(元弥彦神社権宮司)
鈴木彦雄
明治三十年生
被告
無職(元同神社弥宜)
高橋一栄
大正五年生
被告
同神社権弥宜
岡禎一
明治三十八年生
被告
同神社出仕
高橋吉雄
大正十一年生
右四名に対する過失致死被告事件
検察官佐々木衷、弁護人小野謙三、同伴純出席
主文
被告人四名はいずれも無罪
理由
目 次
第一、公訴事実
第二、証拠(省略)
第三、事故発生に至るまでの経緯
一、弥彦神社の概要と各被告人の地位等
(一) 同神社の沿革
(二) 同神社の機構
(三) 各被告人の経歴、地位、職務等
(四) 同神社の地形
二、従来の二年詣の状況
(一) 概要
(二) 前年度の雑踏状況
(三) 餠まき
三、今回の二年詣
(一) 一般的予想
(二) 神社側の行事計画(その一)
(三) 同 (その二)
(四) 行事計画の進捗状況
(五) 二年詣当夜の神社職員の行動
四、二年詣の雑踏警備状況
(一) 従来の警備状況
(二) 今回の警備状況
1、神社側の警備態勢
2、警察側の警備態勢
3、神社側と所轄警察署との連絡
4、当夜の警察側の行動
五、当夜の参拝者数の増加の程度
六、事故発生の状況
第四、犯罪の成否判断の基準
一、本件の問題点
二、群集の雑踏について
(一) 警察の雑踏警備
(二) 弥彦事件に先立つ事件
(三) 弥彦事件以後の事件
三、予見の能否
(一) 予見能否の基準
(二) 注意義務と予見可能性との関係
(三) 客観的予見能否の基準とその判断
第五、結論
第一、本件公訴事実
一、被告人鈴木彦雄は弥彦神社に権宮司として勤務し、病臥中の宮司高橋章允に代り社務一切を統轄していた者、同高橋一栄は同神社に弥宜として勤務し庶務一切を掌理していた者、同岡禎一は同神社に権弥宜として勤務し祭儀及び参拝者の接遇等の事務を担当する者、同高橋吉雄は同神社に出仕として勤務し神社境内地の取締等の事務を担当する者である。
二、同神社には例年十二月三十一日夜近郷から多数の参拝者が集まり元旦午前零時前に一回拝殿に到つて参拝した後、境内又はその附近で暫時休憩し、午前零時過ぎに再び拝殿に到り参拝する、所謂「二年詣り」の風習があり、同神社においてもこれを重要な行事として取扱つて来たのであるが、年毎に参拝者の数が増加し、臨時列車バスも午前零時を中心に増発運行されているので、同時刻頃には境内入口から一の鳥居、二の鳥居を経て随神門に到る延長約二百五十米の参道及び随神門内の広さ六百七十余坪の拝殿前広場並に拝殿等が多数の参拝者で最も雑踏する状況であつた。
三、而して右拝殿前広場の出入口としては、その広場の東端にある随神門の他に、北側の摂末社境内を経て参道に通ずる出入口、同じく北側の奥に社務所、旧裏参道、競輪場、県道等に通ずる出入口、同じく南側の奥に神廟所参拝道を経て参道に通ずる出入口の三箇所があるけれども、従来の経験によれば、特に他に誘導しない限り、参拝者の殆どが随神門の中央の出入口である巾三米十糎、両脇の通用口である巾各一米に過ぎない箇所から出入する実情にあり、而も門の外側は四米五十五糎の間が石畳であり、その先が勾配約十五度の十五段の石段になつているので足場が悪く、行き皈りの参拝者が多数此処に密集停滞すれば、不測の事故を発生する惧れが多分にあるので、参拝者が整然と出入しうるよう雑踏の整理に万全の措置をとることが必要であると考えられる場所である。
四、被告人等は昭和三十年十二月二日及び同月二十七日同神社社務所において、右の所謂「二年詣」の行事につき協議の上、同年元旦初めて実施した福餠撤散(撒散の誤記と認める)行事を今回も施行することに決め、なお同年元旦に実施したときは午前零時頃拝殿内及びその両翼で行つたので福餠を拾おうとして多数の参拝者が犇き争い、そのため、その附近は非常な混乱に陥り、拝殿欄干や拝殿地下道に通ずる階段から転落する者、或は拝殿内に土足のまま乱入する者があり、撒散の任に当つた職員も亦着衣の袖を破られるような状況であつたことに鑑み、撒散の場所を前回とは変更し、今回は随神門翼舎の屋根に櫓を組み、午前零時を期して、この櫓の上から拝殿前広場に撒くことに決めたのである。
五、然るに今回は豊作にも恵まれ、前回より参拝者が一層増加し午前零時頃には、参道や前記拝殿前広場等は前回以上に雑踏することが一般に予想され、殊に随神門及びその附近の状況は前記のとおりであるから、多数の参拝者がある場合には、その流れを円滑にするため、雑踏整理に特段の意を用いなければならない場所であるのに、まして随神門の翼舎の上から広場に向けて福餠を撒くとすれば、その広場内に待期していた多数の参拝者がこれを拾おうとして殺到し、随神門の通路が参拝者の雑踏により閉塞され、門外にも亦多数の参拝者が停滞することとなり、撒散終了と共に皈路を急ぐ門内の参拝者の群は密集した状態のまま、一時に門を通つて石段に押し出ようとし、これと礼拝を急ぎ拝殿前広場に入ろうとする多数の参拝者とが随神門の狭隘な通路及び足場の悪い石段附近において互に衝突し、異常な混乱を生ずることとなり、多分に危険発生の惧れがある。
六、従つて神社境内におけるかかる雑踏を伴う行事の計画実施に関与する被告人等神社職員としては、予め相当数の警備員を適当に配置し、参拝者に一方交通をさせるなど、雑踏整理に十分な方法を講ずると共に、特に福餠撒散の行事実施については、前記のような危険発生の惧れのある時刻場所を避けるべきが当然であり、仮り敢てこのような時刻場所を選んで撒散を行う場合には、前回の行事実施の際の経験及び、随神門内外の地形を十分考慮に入れて、多数の参拝者に危険の生ずることのないよう撒散方法などについて慎重を期し、特に撒散終了直後混乱に陥らないよう参拝者を適当に誘導整理し、安全に分散退出させ得る周到な措置を講じ、以て危険の発生を未然に防止すべき注意義務がある。
七、然るに、被告人等は、前記の如き危険発生につき一抹の危惧の念を懐きながらも深い関心を以て安全確保の方法を講ずることなく漫然前記のとおり福餠撒散を行うことを決定し、その後も安全確保について適切な具体的手段を講ずることなく、同月二十七日頃同神社技手渡辺斧一をして随神門両翼舎の屋根に二つの櫓を組ませた上、同三十一年一月一日午前零時煙花打揚げを合図に、何等安全を確保するに足る前記各措置のとられていない状況下において、前記渡辺等七名をして右櫓の上から拝殿前広場に待期していた数千人の参拝者に対し、福餠撒散を行つた過失により、これを拾おうとして一時に殺到した参拝者をして窒息による失神者を出す程の異常な混乱に陥らせ、撒散終了と共に混乱のため行動の自由を失つた右参拝者をして混乱状態のまま随神門から門外石段附近に押し出し折から参拝すべく石段附近につめかけていた人の群と激突させ、足場の悪い石段附近に折重つて転倒する者を続出する状態に立到らせ、因て、その際又はその直後に同所又はその附近において別表記載のとおり小平トヨ等百二十四名を胸部圧迫による窒息等のため死亡させたものである。
第二、証拠(省略)
第三、事故発生に至るまでの経緯(第二の一乃至二十七)
一、弥彦神社の概要と各被告人の地位等(第二の一、二、二十三、二十四1、2、3)
(一) 同神社の沿革
弥彦神社は弥彦山麓、西蒲原郡弥彦村大字弥彦二、八九八番地に所在し、農漁業守護神たる天香山命を奉斉し、神社神道に従い業務を行う宗教法人であり、越後一の宮として県民一般の尊崇を受けており、当地方においては古くから「お弥彦詣」が行われている。
(二) 同神社の機構
昭和三十一年一月一日現在における同神社の責任役員は宮司高橋章允、権宮司鈴木彦雄、禰宜高橋一栄及び崇敬者信仰者中から選出された二名の合計五人を以て構成されていた。同日現在の同神社の職員は宮司以下二十五名、その内訳は宮司、権宮司、禰宜各一名、権禰宜三名、宮掌一名、出仕四名その他で、宮掌以上は本職、上局等と称し、包括団体たる神社本庁から任命された者である。
(三) 各被告人の経歴、地位、職務等被告人等はいずれも代々弥彦神社に神職として奉仕している、所謂社家の出身である。
鈴木彦雄は、神宮皇学館を卒業し大正九年弥彦神社主典に補せられ、昭和二十二年には同神社権宮司に任ぜられ、社務全般につき宮司を補佐し、同三十年十月二十七日宮司高橋章允が脳溢血で倒れて以来、宮司代務者として社務全般の統轄をしていた。
高橋一栄は右章允の子であつて、神宮皇学館卒業後一時神宮司庁に勤務、昭和十八年弥彦神社主典、同二十二年同神社禰宜に補せられた。
岡禎一は高田師範学校を中退、昭和二年弥彦神社出仕となり同二十二年同神社権禰宜に補せられ権禰宜三名中の筆頭の地位にあつた。
高橋吉雄は元権禰宜筆頭高橋吉郎の子であつて、旧制巻中学校卒業後昭和二十二年弥彦神社出仕となつた。
昭和二十八年末に「弥彦神社処務規程」が定められて以来、鈴木彦雄は財務部長、高橋一栄は庶務部長、岡禎一は秘書主任の他庶務部賽務主任、同部祭儀主任、財務部主計係を兼ね、高橋吉雄は財務部苑地係主任代理(境内の清掃及び取締に関する事項を管掌)と庶務部舞楽主任代理を兼ねている。
被告人等は弥彦神社職員中の実力者であつて、本件事故の原因となつた餠まき行事の計画並に実施につき重要な役割を演じた者である。
(四) 同神社の地形(第二の二十三、十九の7)
1 弥彦神社は国鉄弥彦駅の東北方約七〇〇米の地点にその境内入口があり、右駅から同地点までの歩行距離は参道廻り八六五米、旧道廻り八〇七米ある。
2 右境内入口から一の鳥居をくぐつて突きあたりを左折し二の鳥居を経て暫らく進めば随神門段下にいたる。突きあたり地点まで約一二〇米附近に神符授与所、手洗所がある。左折点から右段下まで約一二五米。幅員七米三〇糎(中央六〇糎の部分は石畳、その両側は砂利敷)の参道であり、極めてゆるやかな昇り勾配をなしており、両側は杉の大木が生い繁つている。
3 随神門前石段は、幅員七米七四糎、高さ二米四九糎、踏石の奥行五五糎、蹴上りの高さ一七糎、一五段、勾配約一七度である。この石段を登り切つたところは随神門まで二米二八糎、幅八米三〇糎の踊り場になつており、この踊り場の左右に右玉垣で囲まれた空地があり、これら随神門外石段上の平地の総面積は約一一一平方米であつた。
4 随神門は高さ約一〇米間口八米奥行四米二〇糎、中央口の幅員は三米一〇糎、両脇の通用口の幅員は各一米、随神門の南北に翼舎を存し、夫々南翼舎、北翼舎と称している。
5 随神門をくぐると斎庭と称する拝殿前広場に至る。広さ約二、一七七平方米で木柵に囲まれ、南北の距離は五六米四〇糎、右門から正面の拝殿まで幅員三米六〇糎の石畳の道が通じている。全長二四米六五糎である。
6 拝殿の北側に伺候所、南側には神饌所があり、裏側には本殿がある。拝殿は両側の建物より約一四米突出し、正面幅約一一米である。
7 斎庭への出入口は随神門の他に三箇所ある。
(イ) 北側木柵の手前摂末社への出入口(幅員二米二五糎)。摂末社前庭を経て境内参道随神門の石段下附近に通ずる。
(ロ) 北側木柵の奥伺候所脇出入口(幅員一米四四糎)。神社境外北側の県道に通ずる。
(ハ) 南側木柵の奥神饌所脇出入口(幅員一米四四糎)。弥彦神廟所参拝道を経て一の鳥居附近の境内参道に出る。
二、従来の二年詣の状況(第二の一、二、三)
(一) 概要(第二の二十一、二十二、十六の1)
同神社の参拝者間には昭和六、七年頃から例年、大晦日より元旦未明にかけて参拝をする風習が生れ、昭和十六、七年頃最高潮に達し、戦争末期及び戦後一時参拝者が激減したが、近年再び盛となり、本件事故当年までは、年々参拝者が増加する傾向にあり、事故前年度のその数は一万名を突破した。これと参拝者は元旦零時以前に一回参拝した後、午前零時過ぎに再び拝殿に至つて詣でる者、正午前零時に礼拝する者、深夜の初詣でをする者と色々な形態を含んでいるが、両年度に跨つてお詣りをすることに特別の意義をもたせているのか、もつと露骨に二年分の御利益にあずかろうとする者があるためか、いつの頃よりか、「二年詣」の名称を生じた。
弥彦神社としても二年詣の際の社入金が年間総歳入金の一割強を占めるところから、所謂「かき入れ時」「繁忙期」としてこれを重視し、二、三年前から毎年関係交通機関にポスターを配布し宣伝を心掛ける等、神社の重要行事として取扱うようになつた。
一方旅館、料理店、土産物店等は弥彦村において門前町を形成しており例年二年詣の際に参拝客から収益を得ているので、この行事の盛行を希望し、予てから、他の社寺の例に見られるような人寄せの催しものをして参拝客の誘致を図るよう神社当局に要望していたのであつて、神社側もこれに応えて、事故前年度の元旦の二年詣から「礼餠まき」を行うに至つた。
又関係交通機関は、この参拝者の便宜を計り弥彦到着は午前零時以前、出発は午前零時以後の臨時列車やバスを運行している。
(二) 前年度の雑踏状況(第二の二十一、七の5)
二年詣りの性格上、例年午前零時前後に神社境内は最も雑踏する。午後十時過ぎ頃から国鉄の臨時列車が到着すると、その都度一、〇〇〇余の降車客が途中、その他の参拝者を併せて参拝者群集となり、沿道一杯にひろがつて斎庭内に参着する。この際参道及び随神門前石段の幅員は同門の出入口の幅員より広いから、右群集が通過する際、この石段附近で多少はその密度が高まる。然し最も雑踏するのは参拝者の最終目的地である拝殿附近であつた。前々年度の二年詣に参拝者が押されて土足のまま拝殿内に立入るような事態を生じたので、前年度からは地元弥彦村の青年会員一〇名に依頼して拝殿前で交通整理を行い、参拝を終えた者を拝殿の左右の廻廟の階段から広場に降りるよう誘導したが、この附近の混雑は激しかつた。整理に当つた大滝岩雄によると、「十一時頃から混み始め、十二時前後に最も混雑し広場一帯は人で埋まり、拝殿正面階段はギシギシ人が詰まつていた。酒気を帯びてワイワイ押し余計な混雑をさせる人も混つていた。こうして混雑はひどくなり社殿に昇る階段の下から一、二段目のところで、ついに五十才位の女が倒れた為、その前後各二人位が前にのめつたのを見たが、間もなく、起き上り」事故はなかつた。
このときの二年詣では、午前零時頃随神門及びその門前の石段附近は例年に比し格別に雑踏した訳でなく、参拝者が同所附近に殊更停滞して押し合うなどのことはなかつた。
(三) 餠まき
前記のように神社側では、地元業者の要望を容れ、前年度から、元旦午前零時に福餠撒散を行うことに決し、二年詣当夜その時刻に太鼓をうちならし、岡禎一、高橋吉雄ら四、五名が約一斗五升の餠を拝殿両側の伺候所、神饌所等から斎庭へ撒散した。餠ひろいに集まつた者は、この行事に気付かぬ参拝者も多く、場所も奥まつていることとて、両側とも、各数百名に過ぎなかつたが、餠まきの最中廊下欄干に這い上り、撒散に先立つて三宝内の餠を奪い、二、三名が餠を奪いあつて階段から転落したりの狼藉を働く者があり、福餠撒散者の中に着衣の袖を破られる者も出るという有様であつたが、混雑のため負傷者などが出るような状況ではなかつた。
三、今回の二年詣(第二の一、二、三)
(一) 一般的予想(第二の十七)
二年詣参拝者が近年激増の傾向にあつたことは既述のとおりであるが、今回も亦、一般的な好況、米の豊作、降雪の少い等の好条件が重なつたので、年末が近づくにつれ二年詣は前年度以上の人出が予想され、例年特別輸送を行つている国鉄、新潟交通、中越自動車、長岡鉄道の四者もこれを見越して臨時列車、バスの増発態勢を整えていた。
(二) 神社側の行事計画(その一)(第二の二十四の4乃至10)
1 昭和三十年十二月二日弥彦神社社務所において定例職員会議が開かれ、鈴木彦雄以下主として主任以上の一一名が出席して二年詣行事につき打合せを行つた。会議の主宰者は被告人鈴木彦雄であり被告人高橋吉雄が議事の要点を録取したのであるが、席上主な発言者は被告人高橋一栄、同岡禎一、同高橋吉雄であり、営繕係の技手渡辺斧一も担当業務につき発言した。
2 餠まき場所の変更
前回行つた福餠撒散は参拝者の好評を得たということで今回も行うことに異議なく賛成が得られたが、岡禎一、高橋吉雄が前年度撒散時の混乱に徴し撒散の場所を変更したいと提案し、変更に決した。
高橋一栄は、伺候所、神饌所前の広場に高さ一間、一坪位の櫓をそれぞれ設置し、この櫓の上からまこうと提唱したが、櫓を組むのに経費がかさむ、餠の拾得を争う者が、櫓に登つて来て多勢になれば櫓が倒れるかも知れない、傍に篝火をたくから、人がそれに飛び込むと危い等の理由で反対し、高橋一栄も強いて主張することなく、授用に至らなかつた。次で岡禎一は、基礎も安定していて撒散従事者も安全、経費も安く簡単に櫓を設置できるなどの理由から随神門の南北両翼舎の屋根に夫々櫓を設置しこの櫓から撒散する方法を提案して出席者全員の賛成を得、元旦午前零時を期し、右櫓の上から斎庭に向い紅白の福餠二斗(約二千個)をまくことに決し、渡辺斧一が櫓の設置を担当することになつた。
3 なお、前回の太鼓に代えて午前零時に花火一二発をうち揚げること、地元青年会員十名に前回と同様拝殿附近の交通整理を依頼すること、ポスターの印刷配布を前回同様にすること、照明は前年度八基であつた照明灯を一二基にする、又拝殿廻廊、随神門附近、境内の参道要所要所に照明を増やす、摂末社出入口にはその旨書き入れた田楽灯籠をその両側に設置することなどを取り極めた。
(三) 神社側の行事計画(その二)(第二の二十四の4乃至10)
前記定例職員会議で定めた二年詣行事計画を全員で確認しその徹底を図ると共に計画の進行状況を各担当者から報告させるため、十二月二十七日、社務所において被告人鈴木彦雄主宰のもとに全体会議が開かれ、同人以下臨時仕丁に至るまで職員二十名が出席し、被告人高橋吉雄が前回同様議事の要領を録取した。
1 元旦午前零時花火の第一発を合図に短時間に福餠撒散を行う、撒散の実施は渡辺斧一が一任され、同人とその配下が担当する。
2 前年度の拝殿附近の雑踏の経験に照し同所附近の交通整理のためスピーカー一基を設置する。(被告人高橋一栄の提案)
右事項を決定し、被告人高橋吉雄は各交通機関につき列車バスの運行予定を調査し、列車についてはその結果を得ていたのでこれを報告した。
(四) 行事計画の進捗状況(第二の二の4、三の9、10、四乃至十一、)
1 ポスターは「弥彦神社元朝詣、三月まで夜宴神事」と印刷したもの二五五枚を交通機関、崇敬者等に提示方を依頼して、十二月十五日までにその送付を終了した。
2、渡辺斧一は同月二十七年随神門南北両翼舎の屋根の上にこの建物を支柱に利用して、櫓を組んだ。この際同人は、被告人高橋一栄から餠が参拝者の顔に当らぬよう緩かに投げるよう指示を受けた。
3、餠つきは黒津歳太郎等の手により同月二十九日行われた。紅白の福餠二斗約二、〇〇〇個を用意した。
4、スピーカーは同月三十一日午後被告人高橋吉雄指示監督のもとに渡辺斧一が随神門南廻廊に一基取付けた。
5、被告人高橋吉雄は、十二月三十日地元弥彦青年会員成沢光雄に対して青年会員一〇名で拝殿及び向拝(拝段直前部分)附近の参拝者の交通整理方を依頼した。
6、被告人高橋吉雄は、花火師に対して、同月三十一日午後十二時になつたら飯殿前空地で、なるべく早打で花火一二発を三分位で打揚げてくれ、と依頼した。
7、十二月三十一日被告人高橋一栄の指示により権祢宜五十嵐錬太郎が新聞紙大のハトロン紙に「福餠撒散(もちまき)午前零時煙火あいず」と墨書し、午後八時頃仕丁に随神門南翼舎側の入口柱及び手洗場各一枚を貼出させた。
8 十二月三十一日から元旦にかけての勤務割については、十二月二十八日頃庶務係主任が決裁をうけて職員に回覧周知させている。
(五) 二年詣当夜の神社職員の行動
当日、各職員は午後九時から、前記勤務割の定めるところに従つて配置についた。
1、拝殿内には宮掌平塩政市以下四名、臨時手伝二名が勤務し平塩は祈祷及び祝詞奏上を行い、その他の者は祈祷申込の受附、神符御供米、御神酒の授受等に当つたが、拝殿内勤務者は仕事に忙殺され、拝殿内と拝殿直前附近の混雑状況を認めたのみで、本件事故発生を知るまで、その余の箇所の状況については知る由もなかつた。
2、南翼舎内には権祢宜五十嵐錬太郎以下二名、臨時手伝三名、北翼舎内では権祢宜高橋忠之以下二名、臨時手伝三名が祈祷の受附、おみくじ、神符、護札の授与等に従事していたが、同じく事務に忙殺され、僅かに福餠撒散時の広場のどよめき、喧噪を耳にするのみであつた。
3、境内の参道曲り角にある神符授与所には出仕補宝井直臣以下二名臨時手伝五名がおり、前記翼舎勤務者と同様事務に忙殺され、授与所前に参拝者が密集していた関係もあつて前方一二〇米附近の現場の状況につき知るところがなかつた。
4、社務所では仕丁岡田正吉他一名が臨時手伝一名と共に宿直、連絡と電話交換に当り、社務所を離れず、外部の状況を知らなかつた。
5、仕丁西沢三代吉は社殿勤務として雑役に従事、餠まき直前から終了まで神饌所前の篝火にあたりつつ広場の雑踏状況を見ていた。
6、勤務外の職員は山本監視五十嵐正六、雇黒津トキ、同武石礼子の三名であつた。
7、各被告人の行動、
(イ) 鈴木彦雄には特定の勤務割がなく、午後九時頃出社し、一旦境内を巡視して前記神符授与所に入り、その後は同所を動かなかつたので福餠撒散前後の状況については知るところがなかつた。
(ロ) 高橋一栄にも特別の勤務割なく、同人は午後九時頃社務所に行き、その後主として照明設備を見ながら境内を一巡し、その間南翼舎において高橋吉雄に代り二、三回スピーカーで拝殿両側の階段を廻つて下さいと放送し、同十一時四十五分頃、再び社務所を立出で、福餠撒散の状況を見たり、神符授与等の事務手伝をするため南翼舎に入つたが、同所からはお札貰いの参拝者等に塞がれて斎庭全体に亘つての群集の動態はつかめず、単に餠を拾おうとする群集が随神門に向つてこれを半月形に囲んでいるのを認め、喧騒を耳にしたのみであつた。
(ハ) 岡禎一は当夜は非番であつたが午後九時頃から伺候所において特別参拝者(篤信者)の接待をなし、同十一時頃から拝殿内で祈祷を行つていたが、参拝者に視界を遮られ斎庭の状況については直接見分せず、花火打揚と共に広場が俄に喧騒を呈するのを耳にしたのみである。
(ニ) 高橋吉雄は、午後九時から主として南翼舎内で勤務し、参拝者の受附、及び放送の任に当つていたが、雑踏整理に従事する青年会員や花火屋に連絡するため四、五回同所を離れた際斎庭内の状況を見ており、殊り同十一時四十分頃南側木柵奥の神饌所傍出入口を経て花火屋に連絡をなしたときは、斎庭内は参拝者をかき分けて行かねばならぬ雑踏であり、花火師に連絡の直後青年会員に対し花火が上ると餠をまくから、押し合いが初まり篝火に飛び込んだりして参拝者が怪我をしては困る故その方の警戒をして貰いたいと依頼した後南翼舎の櫓に上り、餠まきの状況を見ていた。
四、二年詣の雑踏警備状況(第二の一、二、三)
(一) 従来の警備状況(第二の六、七、十三、十四)
1、前述のとおり、昭和十七、八年頃は二年詣の最盛期であり、警察官、消防団員等が交通整理をしたことがあるが、一の鳥居と二の鳥居間特に神橋附近の整理に当つたものであり、随神門附近、斎庭内等を警戒したことがあるか否かは明らかでない。戦争末期から戦後にかけては参拝者が激減した為に雑踏もなく、従つてその整理の要も見なかつたが、近年参拝人の増加するにつれて神社側も漸次警備態勢を整えつつあつた。
2、神社側が前年度から青年会員に対して拝殿附近の交通整理を依頼するに至つた経緯並にその実施状況については既述のとおりである。
3、警察側の警備状況を見るに、昭和二十八年度(昭和二十七年十二月三十一日夜から同二十八年元旦にかけて)は一小隊(隊長杉山警部補)一三名を以て弥彦神社及び附近参道一円をその警備取締区域とし、警備本部を弥彦巡査部長派出所に置き、祭典行事等の状況を参考資料として状況に応じて処置するものとする、警備時間は十二月三十一日午後十時から翌一日午前二時まで、との計画の下に実施。同二十九年度は隊員二名を増加し、全員に警棒提灯の携行を明示した他は前年度に同じ。前回昭和三十年度は隊員を更に三名増加、隊長を倉又警部にした他は前年度に同じである。従来神社境内の雑踏警備には関与せず、また神社側からその要請をうけたことがなかつたので、専ら神社境外の諸車の整理、暴力事犯の予防及び検挙に重点を置いて警備を実施していた。
(二) 今回の警備状況(第二の六、七、十三、十四)
1、神社側の警備態勢
前述のとおり、拝殿内及び向拝附近の交通整理以外には餠ひろいの群集に対しても随神門通過の群集に対しても特段の関心を示していない。また神社当局としては境内の雑踏警備に関して警察に対して之を要請するとか、その助言を仰ぐとかの積極的意思を有しなかつたものである。
2、警察側の警備態勢
昭和三十年十二月二十二日巻署において巡査部長以上出席の幹部会が開かれ、昨年は若干手薄であつた為公園、裏道等で暴力事犯があつた、今年はできる丈警備員を増加し、暴力事犯の防止に重点を置く旨の署長訓辞があり、同年十二月二十七日全署員巻署集合の際、杉山警部補企画立案にかかる(弥彦神社二年詣警備計画)と題するプリントが配付され、暴力事犯の取締に重点を置くとの説明がなされた。右プリントは、隊員を三四名に増加し警備開始時間を午後九時二十分とした他、勤務要領を「取締は交通事故並に暴行傷害等の悪質事案の予防横挙を重点として雑踏整理と悪質犯の発生が予想される公園その他露地に至るまで周密なる共同警羅を実施し、駅員各運輸関係者、神社関係者との連絡を密にし、行事の進行状況を適確に把握し、適正なる活動を行うこととし、特に吉田駅(国鉄越後線から弥彦線への乗換駅)の事故防止については公安官と密接な連絡の下に積極的に取締を実施すること)と、従来より詳細に規定していたが、神社関係者との連絡等に関しては特別の具体的な指示はなかつた。
3、神社側と所轄警察署との連絡
偶々昭和三十年十二月二十七日神社側において前記全体会議中、右の巻署の集合から皈来した弥彦巡査部長派出所の樋熊巡査部長が訪れ、二年詣の件につき打合せをなしたいと申入れた為、神社側ではその来意を受けて明日派出所に係の者が出向いて打合せをとげると返答し、被告人高字吉雄は上司鈴木の意をうけて翌二十八日午前十一時頃派出所に赴き前記樋熊と約一時間会談した。この会談は巻署の警備計画書に基いて樋熊巡査部長が神社の行事内容把握を目的にして発意したのであるから、その質問に答えて、高字吉雄は、花火の件、餠まきの件、拝殿前の交通整理の件等について説明をしている。
樋熊英作は前掲警備計画書を示して、その要領を説明し、自分は従来捜査のみを担当して来た関係で雑踏警備の経験がないが、できたら境内の参道丈は中央にロープを張つて交通整理をしたらどうか、消防団員にも交通整理を頼んではどうか、又救護班を設けてはどうかと助言したが、被告人高橋吉雄は之に熱意を示さず、樋熊も亦之を強く主張しなかつた。その間、境内の雑踏整理に関し餠まきの始まるころになつたら境内参道の方に入つて警備をして貰いたいとの申入れをなし、樋熊も之を諒承した。高橋は検察官に対して「今年は状況から見て十二時頃になると随神門の辺りが一番混雑するから、その方にどんどん入つて貰いたいと樋熊に申入れた」と供述している。この供述によれば高橋が事前に随神門附近の雑踏の危険性を予知しその場所を指摘して警備要請をしたかのように解されるが、高橋は本来、警察側に警備要請をする意思をもつていず、会談の際之を思いつき、警備方を申入れたところ、「警察官が神域内に入ると見ばが悪いから」と樋熊がためらいを見せたので高橋から「雑踏整理は警察の職務でしようが」と突つこんで之を承諾させたという事の経過に照して考えれば、右供述の如き形で警備要請がなされたのではないと解すべきである。両者とも雑踏整理を高密度群集の圧死傷事防止の観点から検討するという意識は全然之を有しなかつた。
高橋吉雄は、同日鈴木彦雄、高橋一栄に対し簡単に報告し、両名も之を単に聞きおく程度であつた。樋熊英作も同日午後二時頃巻署警羅交通係長杉山警部補に会談結果を電話連絡しているが、杉山もこの連絡内容につき特段の関心を示さなかつた。
高橋吉雄は同年十二月三十一日午後八時頃再度前記派出所を訪れ、高岡巡査に対し、「本署の方から隊員が到着したら第一分隊に十二時前には随神門の方へ来る様に連絡して貰いたい」と申入れたと供述している部分が、そのような立入つた申入れをなしたかどうかは疑問である。同巡査は右の申入れを「今夜は一つお願いします」と云われた程度に受取つている。
4、当夜の警察側の行動
当夜十二月三十一日午後九時二十分頃弥彦巡査部長派出所において樋熊巡査部長は倉又警部、杉山警部補に対し、「午前零時になつたら餠をまくから、その頃になつたらお願いする」と神社側から申入れがあつた旨報告した。杉山警部補は、境内参道の雑踏警備をすることだと考え、余裕があればその時刻に隊員二、三名を派遣することを考慮した程度で、既定計画に従い、午後九時三十分頃から隊員一同を警備につかせた。
之に先立ち、同人は隊員と共に拝殿に赴き参拝をしたのであるが、途中餠まきのビラについては気付いたものの、餠まきの場所には関心なく、随神門両翼舎の屋根上に組んだ餠まき櫓を認識せず、隊員中にもこの餠まきの場所が包蔵している危険性につき想い到る者は一人もなかつた。
午後十時頃巻警察署長本間周蔵は最高指揮者として同派出所に到着し、その際倉又警部から前記神社側の警備要請につき報告を受けたが何ら格別の処置をとらなかつた。警察側は交通事故並に暴行傷害等の取締を重点として予め策定した警備計画に従い、神社境外の警備に専念していたものである。
杉山警部補は午後十時頃自己の隊員関川巡査に対して十二時頃になつたら拝殿の方へ行つてくれと指示したと云うが、関川巡査のその後の行動は不明である。
五、当夜の参拝者数の増加の程度(第二の十七、十八、十九、二十三)
(一) 列車利用者
当夜の三、二三四列車から三、二四二列車まで七本の降車客数合計一〇、五三三名と前年度の三、二一〇列車から三、一一一列車まで五本の降車客数七、八六〇名の差である約二、〇〇〇名は今回の参拝者の増数と見てよい。
(二) バス利用者
(イ)新潟交通利用者は七六四名で前年度は四八六名、(ロ)中越自動車利用者は臨時バス利用者中の七割が参拝者実数であると看做し計数を補正すると三、六三五名、前年度は二、五五三名、(ハ)長岡鉄道自動車部利用者は五四九名であつて、前年度は一六五名、
であるから両者各合計の差一、七四四名が今回の増数である。
(三) なお右の他に自家用車利用者、徒歩参拝者等の参拝者が存在し、その数は確実に把握することができないが参拝者の主力は右の交通機関利用者であることが明らかであるから今回の参拝者は一三、〇〇〇名以上、前回に比べ約三、〇〇〇名程度の増加と見るのが妥当である。
六、事故発生の状況(第二の二十、二十一、二十二、二十三、十九の7、8)
(一) このようにして大惨事が着々として準備されつつあつた。群集の圧死等の事故発生の危険に対しては、神社側も警察側も無警戒の状態にあつた。渦中の人となつた群集の成員自体も例外ではない。
事故発生の状況の解明は当裁判所が最も意を用いたところである。群集の成員は、その体験が部分的断片的であり、二、三の客観的観察者も事故の発生を予期していた訳ではないので、状況把握が十分でない。加うるに捜査に当つた検察官も、本件訴訟を担当した当裁判所も事態の科学的究明の方途をもたぬままに重要事実を逸している場合も多かつたかと思われる。この様な事情で事故の実情把握は極めて困難であつた。
(二) 戸川喜久二作成の鑑定書中の記載によれば、
「(1) もちまき中に生ずる群集分布の変化
花火の打上げともちまき開始により翼舎をかこむ半円陣は少くとも群集密度一〇人/毎平方米にまでは密度を高めて、占有面積を縮めた。しかしそれだけ新たな群集がその円陣に加わるので、占有面積二〇〇平方米は、見た眼には変らなかつたことと思う。
南翼舎から先にもちをまき始めたということであるから、当然南翼舎側の方が群集数は数百名多かつたと思われる。密度一〇人では落ちたもちを拾うこと、手を上げることは可能である。しかし多くの証言によればそれが不可能だつたところもある。
もちまきにより約三、〇〇〇名がもちを追つて動揺するため群集の密度は次第に平均化し、さらに高まつたものと思う。悲鳴怒号が聞えたというので、その部分は一二人/毎平方米を越えている筈であるが、全体がその密度になつたとは思えない。
もちまきは節分の豆まきの行事に似ているがそれよりも形が大きく、とても豆の数には匹敵せず、従つて群集数に比し著しく少いという稀少価値が群集心理に及ぼした影響は可成あつたものと思われる。
(2) 事故前後の解明
もちまきは三分ほどで終つたが、群集はなおもちまきを期待してか俄かに動かず、大規模な移動開始は花火の打終つたころである。南北両翼舎の二つの半円陣群集が合流して門を目指すのでその密度は一二人を超えた。多くの証言に地上よりの浮き上りが述べられているが、この現象は一三人以上でないと生じないもので移動の開始ごろはごく部分的に、のちには可成の広範囲に生じた。
(イ) 〇・〇五〜〇・〇八第一波
南翼舎側の群集の優勢によつて北翼舎側の群集は門より遠く押戻されているが、この第一波で門外に約二〇〇名が流出した。
(ロ) 〇・〇八〜〇・一〇逆流現象
門外群集より門内北寄りに押戻される。約一〇〇名の流入
(ハ) 〇・一〇〜〇・一五第二波
北翼舎側群集の優勢により門外に約三〇〇名流出。門内群集密度平均化する。一三人/毎平方米以上と推定される。
(ニ) 〇・一五〜〇・一八第三波
第二波と連続であるが門内群集の移動が安定し、従つて確実な圧力で前進を続けたことが注目される。
石欄の破壊零時一五分
停電 零時一八分
(ホ) 〇・一八〜〇・五〇事故収拾
零時一八分には境内二、〇〇〇名の群集が階段中心に集結を終つており、また午後一一時五八分弥彦駅降車客一、八二六名の大群集の先頭部分の群集が事故現場に到着している。
(3) 石欄を破壊する力
石欄の破壊にどれ程の力が働いたか。
これは、石欄の顛倒モーメントと、モルタルの付着強度の和で求められる。モルタルの付着強度は材質、施工、経年、環境等が作用するが、比較的良好であつたとすれば、南側石欄約四米に働いた外力は六二〇瓩(一三〇瓩/米)北側石欄二米に働いた外力は三〇〇瓩(一五〇瓩/米)である。石段の倒壊方向よりすれば、この外力は波状に加えられたものである。また外力より推定される附近の群集の密度は一一人/平方米である。南側石欄の方が多く破壊した原因は群集に左側通行の習慣があり、自然に南側の滞溜群集が多くなつたためである。
(4) 事故時の群集の圧力
(イ) 階段面上の群集のみで計算しても、対抗し合つている接触面に生ずる圧力は二四トン、さらに段上から門内に続く群集巾三米奥行八米の範囲を有効圧力とすると、七・二トンがこれに加わる。
従つて、最も力の加わる最下段附近では〇時一五分の数分前より失神者が生じ、時間と共に増加し、かなり広範囲に無力化していたことと思う。最初の脱落も当然最下段附近である。あとは、この陥没箇所を埋めて次々にこれに面する側が塀のように倒れこんだ。
(ロ) 〇時一八分には事故は終つていた。
引きつづき事故収拾が始められ、〇時二〇分には拝殿に犠牲者が運びこまれた。運び終りは〇時五〇分である。
(ハ) 群集の圧力は前進に強く後退に弱い。一〇〇人の前進圧は二トンほどであるが後退圧は一トン強ほどである。但し、かけ声もろともの前進をするときは四トン乃至六トンの圧力となるので、野次馬の存在は極めて危険なものである。
(5) 滞溜現象の原因
二年詣の風習そのものが既に滞溜現象であるが、過去は自為解消によつて事なきを得ている。それは群集の人数の多寡によるものでなく、群集密度が平方米一〇人を超えない安全圏内にあつたからである。
事故を生じた滞溜現象の原因は、随神門の内外の群集密度を漸増しつつ遂に安全限界を超えたため、自然解消が不可能になつたことであるが、漸増をもたらしたそもそもの原因に次の二つの事象がある。
(イ) もちまき
(ロ) 列車の延着
この二つの事象のうち一つが省かれたなら、この事故は起らずにすんだものである。
もちまきは門内群集の密度を高め、列車延着は門外の群集密度を高めた。
(イ) もちまき
1、その形式はまめまきに似ているが、撒かれたものは、まめより価値が高い。また群集数との相対によつてさらに価値づけられ、獲得意欲を強めた。
2、もちまき位置に対し最短距離に近付こうとする群集は求心的に集合するので、その外周は円弧に近似する。外周の群集も中心部に近付く努力をするので中心部ほど密度が高くなる。
もちまきの繰返しは、こういう群集の密度を平均化しつつ次第に高める役目をした。
3、本件の場合、二つの半円陣群集の合流が門を中心にして起つた。門外に群集がいなかつたとすると、門内出口附近に転倒者を生ずる可能性がある。しかし門外の事故と違つて伝達が早いので、犠牲者は比較的少くて済むのである。
4、前年どおりに拝殿側でもちまきを行つたら、半円陣の外周が門の方に向うので、安全であつた。外周よりの分散は群集に解放感を与え、理性をとり戻すからである。
(ロ) 列車の延着
1、随神門外に群集が滞溜を生じた原因はもちろん、もちまきにより門の通行が困難になつたためであるが、その滞溜群集の増大は列車の延着に大きな原因がある。
2、随神門外群集の主力は弥彦駅午後一一時三三分(午後一一時二一分の延着)着の一、九六三名で、他にバス客、潜在群集が加わつたものと思う。
3、これら群集は、門外の踊場、階段、参道を埋めたが、時間の経過とともに、階段下に集結した。上り階段の状況は参道からよく見通せるが、進行遅々の状態にあつたので、低い密度で立止まつた群集も漸時前進して密度を高めた。花火打上げ当時には既に一〇人/平方米の密度を超えていた。
4、斎庭内群集の流出に対し厚い壁となつて、その前進をはばみ事故の原因となつた。
5、事故の発生時間には弥彦駅着午後一一時五八分(午後一一時三八分の延着)着の一、八二六名の群集先頭部は到着しており、漸次参着増加し階段下群集の外周壁となつた。
6、午後一二時以前に斎庭内にこれら大群集が参着していたら事故は起きなかつた。」
という。右は群集事故解明の方法についての方向づけとして貴重であるばかりか証拠に照してその内容を検討するに、(2)の(ロ)の逆流現象が果してこの時刻に生起したか、(2)の(ニ)の石欄破壊、停電、(2)の(ホ)の事故収拾の各時刻をかくの如く精密に特定しうるかの点につき疑なきを得ない等若干軽微な点を除けば、本件事故実態を証明し得て遺憾がない。
(三) 事故発生の具体的状況については目撃者等の口をかりて之を述べることとしよう。
(1) 南部秀雄(三八年―以下凡て当時の年令)
は十時頃から斎庭内に入つた者であるが
(イ) 「参道は殆ど行く客ばかりで、皈りの客は殆どなく、その頃でも体が触れる程度ではないがずんずん石畳の上を歩くことはできなかつた。」(臨時列車利用の参拝者の行列中に入ると列中者はこの時刻でも相当の混雑を感ずることを示す。)
(ロ) 参拝を終えて拝殿正面の石段あたりで広場内の状況を見ていると「とにかく餠まきが始まる前まで、列車が着いて十分位するとどつと人が入つて来るので、又汽車が着いたなと判るくらい、おいおい人が集つて来た。」(群集の通常の歩行速度は毎秒一米内外であるから表参道廻りの八六五米の所要時間は十四、五分であり、境内に入ると参道幅員が狭まるので速度が落ちる。これを毎秒〇・八米とすれば随神門前石段下までの所要時間は二五〇米につき約五分。合計約二〇分かかることになるが南部の次の列車からはどれも弥彦駅到着が十分以上遅れているので「列車が着いて十分位すると……」ということになる。)
(ハ) 「そんな状態の処に餠まきの始まる五、六分前頃になると前以上の人がどつと随神門から一時に入つて来たので大変な混みあいになつた。拝殿の両横には気付かなかつたが、その他構内は一杯で、人のざわめきで傍にいる者とも話が通じない位であつた。」(午後一一時三三分着の列車乗客の先頭部分と思われるが、五、六分前……」という時刻はどの程度正確か判らない。)この列車の硝子が五、六枚破損していたことよりすれば酒気を帯びた者が相当多かつたに違いない。
(ニ) 「十二時五、六分前頃になると随神門の方からどつと潮が寄せて来るように参拝者が押し上げられて来た。私は拝殿前の石段の一番下あたりにいたが、押しあげられて、ちやんとしていられないので、これは大変だ、こういう処を撮らなければと思つて段の上に上つて門の方に向つて撮影した。」
(ホ) 「餠まきが始まるとそれまで拝殿の方に押寄せていた人波が廻れ右してワアワアと喚声を上げながら潮がひくように随神門の方に引きつけられて行つた。」
(ヘ) 前記第一枚目の写真をとつてから北翼舎の櫓に上り餠まきの光景をとろうとしたが間に合わず、同所から十二時五分頃餠まき終了直後の広場内の状況を撮影したが、「私が広場の方を見たら、もう上に手をあげている人はおらず、三宝の中にも餠はなくなつていた。人々は皆皈りかけているような恰好であつた。二枚目の写真をとつて一寸後を見ると、随神門の石段あたりで、大部隊の衝突のように参拝に来る人と皈る人とがもみあつていた。石段の一番下あたりが、二つの人波がぶつかつたようで、上から押す者の方が余計なようだつた。ワアワア云う人の喚声で何も言葉は聞きとれなかつた。道は人でぎつしりで階段附近の常夜灯を置いた林の中まで人が一杯にかたまつていた。石段の傍の石垣から飛びおりたり、飛びおりるようにかがんでいる女の人を見た。この光景を三枚目の写真にとつた。」(撮影時刻は零時十五分頃である。)
(ト) 「石段の下辺りの人が上の人に何か合図をするように手をふつているので又シンクロを用意してとろうとしたら照明灯が消えた。下を見ると梯子をもつていつて随神門の内側に横に倒して通せんぼうをした。門の内側は相変らずワアワア云つていたが、押し合いは一時停滞したように見えた。又石段の方を見ると降りて来る者の数が粗雑になり、前には人の肩位しか見えなかつたのが、背中が多く見えるようになつた。私は前と同じ方向で四枚目の写真を撮つた。」(時に零時二十分頃である。被告人高橋吉雄は北翼舎の餠まき人夫藤井五郎と共に梯子を横たえようとしたが、群集の罵詈、暴行に妨害され、この試みは成功しなかつた。)
(チ)「そのうち、石段の中程を開いて四、五人がワツサワツサと気合をかけて人の手足をもつて門内にかつぎ入れるようになつた。それで通路も開くようになり、その運搬も瀕繁なので、これは大変と思い櫓から門内に降り脇門から石段の方へ行こうとしたが、人がぎつしりで前に出られないので、横の石垣から飛びおり、灯籠傍の木に登つて見ると下の方の石段や石段の下辺りで人が三人か四人位重つて倒れており四尺位の厚味があるように見えた。上の方に倒れている人は随神門の方に足を向けてうつ伏に倒れており、下に来るに従つて随神門の方に足を向けて仰向けに倒れている人が多くなるように見えた。その光景を木の上から撮つたのが五枚目の写真である。)(時刻は零時三十分頃相当数遭難者が搬出されてからの状況である。)(以上第二の二十の2)
(2) 南翼舎の櫓上にあつた新潟映画社の近藤保(二三年)は、
「餠なげが始まる、花火が同時に上つたときは、随神門の出入口の方で内側へ入つて来る人がぐんぐん押して来て、これも又人の波のようであつた。」(第二の二十一の52)
(3) 海口忠太郎(三五年)は南手前の篝火のところにいたが、
「餠まきが始まると、拝殿の方から人が押しよせ、人波にもまれ、手も自由にならず、餠がまかれる度に、三、四尺の間をあつちこつちに押されていた。その頃押すな押すな、危い、押すと拾えない等と大声で怒鳴つている者もいた。」(第二の二十一の34)
(4) 同所附近にいた角原昇(二一年)は、
「始め広場の人混みは八割位であつたが、花火が上ると同時といつてよい位のとき、門の方からどつと人が入つて来て広場は一杯になつた。まき始めると同時に人がその方に押し寄せ私は仲間と別れてしまつた。」(第二の二十一の136)
(5) 山田安江(二一年)は餠まき直前に押されるようにして門をくぐると、参拝所と書いた田楽灯籠のある賽銭箱あたりまでもとても行けず南側に押し出され、そこから参拝したのであるが、「花火が上り、餠まきが始まると、私の前後左右にいた人がワアツと餠をまくあたりに押し寄せ、私もその人波にもまれてずるずると北翼舎の餠まきの下まで押され、二度程転んで中ヒルの革靴も脱げて素足になつてしまつた。ようやく起き上つて人波にゆられ、随神門脇の小さな門の処でまた転ばされてしまつた。その場所では、二、三十人が転んで折り重つていた。やつとのことで人に助けられ、ぐづぐづしていては危いと思い、脇門をくぐつて夢中で石段をかけ降りて境外に出た。私は胸と腰をいためたが後で負傷者が出たと聞いて私が転んだ場所で起つたことだと思つた。」(第二の二十一の31)
(6) 右山田の同行者本間健治(一七年)は、
「南の方が早く終つたためか、南側のもちまきが終つた直後人が動いてゆき、私も北側の脇門近くまで押され、間もなくもちまきが終ると今度は群集が門から出るためにそちらの方へ移動した。その際私は押されて転び、そこへ人が二、三人乗つたので腰をいためた。このころ山田とは別れ別れになつた。「(本間は石段を五、六段降りたところで立往生をしたのであるから、脱出は山田の方が早かつた。)(第二の二十一の32)
7 青年会員三富昭六(二四年)は、
「参拝所賽銭箱南脇の台に立つて交通整理に努めていたが、この台は人の圧力でつぶされてしまつた。賽銭箱も組立式ではあるが、マツチ箱をつぶした恰好につぶされた。」(第二の六の5)
(8) 矢尻ツヤ子(一七年)は北翼舎のそばまで来ていたが、
(イ) 「花火が上ると門から押しよせて来る人と拝殿前広場につまつた人達が餠ひろいに押し寄せて来るのと二つの波に囲まれて、私の附近も混んで来たが、餠まきが始まると身動きもできず、餠を拾う気もなくなつた。餠まきが終つても人波は止まず、私は妹の手をしつかり掴んだまま、人波に押され、北翼舎と北側手前の篝火との間を五分も十分もぐるぐるともみ廻された。」
(ロ) 「そのうち人波に押されて賽銭箱のところまで行つて、お参りをすませてから石畳の参道を門の方へ押され、門前で殆ど動かなくなり、後から押されて足が宙に浮いてしまい、胸が圧迫されて苦しくなつて来た。石段の処へ来たときは、妹の手を離してしまう。二、三段下りて左の方へ押され前方にのめつた。その場所は石段の南脇だが、倒れた人が多勢重つていたので下へ落ちたという感じはなかつたが、私がのめると後の人も私の方に重つて倒れて来るので、下半身が人の間に挾まつて息苦しくなつて来た。私の下にも重つてべつたり倒れており苦しい苦しいという声も弱まつて来た。上の方に倒れている人は何とかぬけようともがいていた。妹はと後を見たら、倒れずに立つてはいるものの、前によりかかるようにして人混に挾まれて首をたれているので呼んで見たが返事がなかつた。」
(ハ) 同女は石段の端の方にいたので知人から引つぱり出して貰つて脱出に成功、次で妹を救出し失神状態から蘇生させたのであるが、その頃停電、間もなく電気がついて見ると「石段の下の方や石段下側に人が一面倒れて死んでいた。」(第二の二十一の124)
(9) 樋口喜三郎(三七年)は、
「餠まきが終つて一度参拝をすませて門前まで来たときに足は宙に浮いてしまい、胸を前の人の背中に押されて失神した。」(第二の二十一の67)
(10) 皆川俊三(三一年)は、
餠ひろいをしてから参拝所で参拝をすませて直ちに皈ろうとしたが門を通つて石段にかかる頃は人波に押されて、ひとりでに来てしまい、石段の中程では足は前へ進まず、後から押されるので段々とうつむきになり、そのうちに足が宙にういて前方へ倒れたが、そこを又押されて失神した。」(第二の二十一の77)
(11) 中山巌(四〇年)は、
「随神門がすいて来たので、これなら皈れると思い、割に楽に門を出たが石段のところでは、後からの人波に押され三目段位のところで足が宙に浮き、胸のあたりが苦しくなつて失神した。」(第二の二十二の9)
(12) 山田二四郎(四一年)は、(11)と同じケースで、
(イ) 「真直ぐ皈ろうと門のところまで戻つたとき、いきなり押されて、ずうつと出たので、こりや楽だ、足が地につかないでも皈れるなと恰度エスカレーターに乗つたような馬鹿気た感じが湧いた。」
(ロ) 石段の二段目あたりまで来ると、「上から押すのと下から押すのと両方に身体を押されて胸が苦しくなり、どうすることもできず、そのうち前の方がどんどん倒れて折り重なり私も一緒に倒されて死ぬかと思つたが結局倒れず、」石段の南端からとびおりて脱出した。(第二の二十二の73)
(13) 村井弥助(四九年)は、
「足が宙にういたまま、三段位下りたかなと思つたとたんに、一斉に前の方へのめつてしまつた。前のめりにバターンと倒れた。私の下には沢山の人がいた。私が助けられた場所は石段基底部から六尺位離れたとろであり、石段の上から二段目のところから転んでそこまで行つた訳である。今牧祥子は私の直ぐ下にいた。同女に助けてくれといわれたがどうにもならず、きつちりと重なつていた。皆が悲鳴をあげていた。そのとき私は意識不明になつた。」(第二の二十二の33)
(14) 今牧祥子(一九年)は、
「唯押されるままに体をまかせて」門を出て少しずつ前進、石段を中段位まで降りた頃「隣の人が倒れたのにつづいて倒れ、私は頭の方が足よりも低いような状態になつて前に倒れ、胸から上の方は出て、下半身の方はすつかり押しつぶされていた。」(第二の二十一の54)
(15) 登坂登(二六年)は、
(イ) 餠まきの最中に賽銭箱の処へ行つてお詣りをすませて、十二時四十分の汽車に乗ろうと随神門の方へ進むと私の後からも人が続いてきて、押され押され前進、門を出たと思う頃、前後左右ぎつしり人が詰つて身動きもできなくなり、だんだんと外の方へ移動していつた。出ようとする人と入つてこようとする人が階段の最下段辺りでぶつかり、上つて来ようとする人の顔が最下段から参道にずつと続いていた。押されながら三、四段下りると、いくらもがいても体が自由にならず、胸が圧迫されて息もつまりそうで、一、二分間は息がとまつたかと思われたこともあつた。前後左右にどんな人がいたか、見ている余裕はなかつた。唯、助けてくれという悲鳴や、喚き声があちこちに喧しく聞こえた。処が私の左側にいた人が、こつちから出られると云つて抜けたので、私もその後をしやにむに追つて石段の左側に出た。」
(ロ) 脱出後、灯籠裏の木に登り片足を灯籠にかけて石段附近を眺めると、「私と同じように左へ抜けたり、反対に右に抜けたりする者が、一、二名あると、そのすきへ人が倒れ、上から次々に折り重つて人が倒れて行つた。救いを求める声、うなり声、泣さ叫ぶ声が非常なものであつた。」(第二の二十の1)
(16) 小柳庄市(三四年)は、
「餠まきの際中に人波に押されながら賽銭箱の手前二、三米のところまで行つたときは、餠まきは既に終り、その頃広場の群集が随神門に殺到しはじめ、拝殿を向いたまま門を押し出され、そのとき、足が宙に浮いて仰向けに押し倒された。附近の人も同様仰向けである。女の人が、倒れている私達の上を通ろうとしたので、倒れているのだから、上らないでくれといつたら、戻つてしまつた。」(第二の二十一の66)
(17) 石黒吉郎(二〇年)は、
「門をまさにくぐろうとしたときに前が止つて動けなくなり、そのうちに斎庭の方から人が押して来てどうすることもできないままに石段上まで押し戻され、押された勢で体が横むきになつたまま、弟も一緒に石段下の参道まで押し下され、その附近の人にはさまれているときに弟から助けられた。」(第二の二十一の140)
(18) 尾見留三郎(五二年)は、
「人波に押され、蛇行しながら石段を上り、やつと随神門入口に辿りついたときは、門内に参詣人が密集してワアワアと声を出しながら、その頭がゆれて波うつていた。連れの娘達に拝殿は直ぐそこだ、早くお参りをして皈ろうと云つた途端に中から群集が押し出して来たので、娘の手をつかんで、石段の南端部分に後退しその縁石に尻もちをついて石段の下から二、三段目まですべり落ちて、そこから脇に逃れた。娘は石段からとびおりて脱出した。」(第二の二十一の105)
(19) 島田茂雄(一六年)は、
「石段をあと三段位で上りきろうとした時上から押されて石段下に転落して砂利が喰いこんだ。上から二、三段目のところで降りようかと思つたが降りられず、人が倒れたとき恐怖にかられ必死になつて後を向いたのでうつ伏に倒れたのです。」(第二の二十二の5)
(20) 村上コト(五七年)は、十二時五分頃石段下に着いたのであるが、
「私が石段を六段位上つたと思う頃随神門の方から多勢の人がどつと押し出して来て、これは危いと思つたので直ぐ後戻りして下乗札の立つている処へ来て様子を見ていると、門から出て来る人は、油汗を流して、水の中へ顔をつつこんで来た人のようにぬれていた。石段等の混雑状況は昨年の方が本年より余程ひどかつたように見えた。本年は餠まきの為、多勢の人が門内にとどこおつていたので、あたりが割合に空いていたのだと思う。」(このように珍しい供述もある。衝突の始まる寸前に混雑のない部分、また一瞬があつて村上は偶々参拝者群の密度の高い部分から外れていたのだと解すべきか。」(第二の二十一の37)
(21) 小橋又蔵(二〇年)は、
「押されながら石段右端のところを中段位まで上つたところ、門の方からどつと人が出て来て倒れそうになつた。姿勢をとり戻して後から押されて上りだしたら、又人波が上から来て今度はいきなり石段下に右横に倒れたが、直ぐ起きて、脇の林の中に逃げこんだ。そこで石段の上から十人位ずつ一度に落ちるのを二回位見た。石段の真中あたりにいた人が一番余計落ちた。石段から下に折重つて倒れていたが、その恰好は仰向け、四つんばい等様々であつた。」(第二の二十一の103)
(22) 和田貞吉(二〇年)は押されながら石段下にさしかかつたとき、
「石段北側の四分の一位の人がどつと下りて来はしじ、私が中段まで上つたとき左側から下りて来る人の波がひろがつて来て、之を避けようとしたが立往生、押されて、二、三段下つたところで仰向けに転倒、すると前の人が私の股のあたりを踏んで下りて来た。私はもう一度でんぐり返つて今度はうつ伏せになつた。最初転んだときは、未だ石段の途中であつた筈なのに頭の高さと足の高さが同じであつたから今考えると、倒れた人の上に倒れたものと思う。」(第二の二十一の110)
(23) 田崎孝安(二四年)は零時五分過ぎに押されながら石段下まで辿りついたが、ここで立往生、そのうち後の方からぐんと押されて二、三段上つたが、ここでまた立往生したのであるが、
「石段上は全部下を向いており、そこを境に二つの人波がぶつかりあつており、動きがとれず、胸を押されて息苦しくなる。そのうち南側の石垣がどつと崩れ、暫らく押しあつていたら降りようとする群集が、登ろうとする人波に割り込み、その勢で石段の真中附近の人達が折り重なつて倒れ始めた。私は身をよじつて後方に向い、押すのをやめろと恕鳴つとたんにそのままの恰好で押し倒されてしまつた。私は人波の中から直ぐ足をぬいて参道脇に脱出したが、なおも上と下で押し合いが続き、石段には次から次へと人が倒れてゆき、その凄さは何とも表現できなかつた。」(二つの群集の初期の対峙線がよくでている。」(第二の二十一の97)
(24) 板井三二(二二年)は電気が消えてから現場に着いたが、
「行つて見ると、参拝者達が立止つているその前に人が多勢おおいかぶさる様にして倒れており、そばまで行くと足にすがつて助けてくれと云う者がいる。引つぱつてもなかなか抜けないし、後の方から助け出すより仕方がないといつて大勢の人がその方に上つて行つたが、その時は人の頭の上をふんでゆく状況であつた。」(第二の二十一の87)
(4) このようにして、起訴状別表記載のとおり小平トヨ等百二十四名が胸部圧迫による窒息又は頭蓋底骨折により死亡するにいたつた。(二)の(4)摘示のとおり人圧は三〇トンを優に越える部分があつたのであるから右の骨折等も当然のことと首肯することができる。その他肋骨々折、打撲傷等重軽者が少くとも百七十七名生じた。(第二の二十五、二十六、二十七)
第四、犯罪の成否判断の基準
一、本件の問題点
(一) 判例によれば「過失犯の骨子は、罪となるべき事実を予見し得たのに之を予見しなかつたこと」にある。本件の唯一の実質的争点は、この予見能否の一点にかかる。
(二) 検察官は(イ)二年詣の性格及びその参拝者数の増勢、(ロ)前回の福餠撒散時の混乱状況、(ハ)随神門附近の地形、(ニ)参拝者が概ね随神門のみを使用していること、等の事情は被告人の熟知するところであり、これらの事情を綜合すれば本件餠まき行事の包蔵していた危険につき十分予見できた筈であり、現に一抹の危惧の念すらいだいていたのに、被告人らが商業主義に堕し参拝者の安全保護の念慮を欠いていたためにその洞察にいたり得ず、大事を誘発した、と主張する。
(三) 仮に検察官所論の如く、予見が可能であるとするならば、被告人らの主張は悉くその意味を失う。例えば、雑踏整理が本来警察し職務であつたとしても、参拝者中に酔客、弥次馬が多数存在したことが本件の重要原因の一つであつたとしても、餠まきに危険な場所時刻を選んだ被告人らの不注意に他人の過失行為が介入競合しているに過ぎず、その免責事由とならないことは明らかであるし、被告人高橋吉雄のなした警察との警備打合せも極めて不徹底であつたとして責任非難を兎れないのである。
そして又検察官所論の如くであれば、結果の回避の困難でないことも明らかであり、その主張の如き注意義務を課するについて、異論はない。
(四) 右(イ)乃至(ニ)の事情は被告人等が認識していたか、少くとも認識可能な事情であること、さきに認定した事実により明らかであるが、これらの事情は、之を個別的に観察しても何等危険の予兆を含まない。この事象を独立に分析しても、危険の表象は生じない。もとより之らの因子と餠まき行事との相関関係において危険が発生するのであるから、危険の予知は相当複雑な綜合判断を予想させる。綜合判断は結論が正しい場合には、とかく本質的部分と非本質的部分の区別が困難である。
この綜合判断が被告人等に事前に可能であつたとする検察官の論拠は、その論告において精彩に富んでいる。然しそれにもかかわらず所論は因果関係を逆推して不能を可能と強いているのではないかとの疑問を解消し得ない。
当裁判所が独自に予見能否判断の基準を求める所以である。
二、群集の雑踏について(第二の十四、十五、二十八乃至三十三)
(一)警察の雑踏警備
1、警察の雑踏警備は昭和二十九年九月九日制定国家公安委員会規則第十五号「警備実施要則」に基いて行われている。(その後の改正は関係条項に変更を見ない。)同規則の第五章は、第三節に雑踏警備の一節を設けその実施上の要綱を示している。所謂「二重橋事件」が起きたのは昭和二十九年一月二日であるから、右規則はこの事件を契機に制定されたに違いない。
本件事故当年に巻署が策定した警備計画は神社関係者等との事前連絡をうたつており、弥彦巡査部長派出所の樋熊巡査部長らが神社側との打合せに際し、救護施設の提案をしているのは、明らかに右警備実施要則の第七十八条第七十九条に基いている。その第二条はその目的を個人の生命身体……の保護に置いている。
2、然るに、警察は、上は県警本部長から下は地元派出所の巡査に至るまで警備の要点を暴力事犯の取締、交通事故の防止に指向して群集圧死等の事故につき危惧するところがなかつた。この事実は予見能否の判断につき示唆を与えるのではあるまいか。
3、一件取寄記録によれば、「二重橋事件は、昭和二十九年一月二日、一般参賀に集つた群集が、二重橋から参入するに際し、橋上でその密度を増し犇き備あうので、警に当つていた警察官がその勢を阻止するために橋の手前北詰にロープを張つたのであるが、時間の経過と共にその数を増した後続参賀者が先頭の停止しているのに焦だち寸歩でも前進しようと圧力を増し始め、ロープに接着する先端部分の人々は油汗を流して苦悶の様相を呈し始めたので、警察官は今はこれまでとロープを放つたところ、群集が橋上に殺到するに際し転倒者が出て、附近一帯は将棋倒しになり、後方では前方の事情を知つてか知らずかどんどん押し進んだ結果、死者十六名重軽傷者三十数名を出したという事案である。当日の参賀者は十数万といわれる。
4、少くとも右事件記録には、事故原因の科学的究明がなされていない。当時ラジオ新聞等はこの事件を全国的に報道したのであるが、事故原因の普遍的性質は報道当時には判明していなかつたのであるから、弥彦神社類似の行事をもつ諸方の神社、仏閣等の関係者にとつて、この事件が群集災害に対する警戒心を強める契機になつたとは思えない。
5、警視庁では、この事件が不起訴で落着の後も事故原因の検討を怠らなかつたであろう。その結果が恐らく前掲警備実施要則にもられたのである。然し事故原因の普遍的性質につき之を特に宣明して広く、外部に啓蒙宣伝をなした形跡はない。
(二) 弥彦事件に先立つ事件
1、本件以前の事件として、右の二重橋事件の他、(イ)昭和二十八年六月十八日の日暮里駅陸橋埠落事件、(ロ)昭和二十三年八月の新潟市万代橋事件、(ハ)昭和九年一月九日の京都駅事件の三件がある。(イ)の日暮里事件は陸橋羽目板が滞溜群集の進行阻止線になつた点で共通性があると思われるが、当初その類似性に想い到らなかつたので記録の取寄をしなかつたし、(ハ)の京都駅事件はは、深夜出発の海兵団入団者の見送人が跨線橋降り口に集中し、この一箇所で三千数百名が犇きあつたので、駅員が反対側の跨線橋降り口に見送人を迂回させようと整理中、遅れてかけつけた入団者の一団がフオームに密集する三千余名を押しわけて列車に乗りこもうとしたため、約八十名の圧死者、七十余名の象傷者を出したと称せられる事件であるが、行政検視にとどめ刑事司法事件として立件しなかつたらしく、一件記録は存しない旨現地検察庁より回答があつた。
2、新潟市においては、毎年八月信濃川の川開きの祭礼に大がかりな花火うち上げの行事が催され、その見物に、諸方より人々が参集するのであるが、「万代橋事件」は一件記録によれば、この見物人が橋上につめかけ、後続群集が寸歩でも前進して欄干側に近づいて花火を見ようと犇きあつているうちに欄干に加わる圧力は次第に増し、遂に橋の西詰川下側が落下し、これと共に橋下に転落した人々のうちから数名の死者数十名の負傷者を出したという事案であり、責任者を出すにいたらず、その後は、橋上に人車を佇立せしめないように交通整理を行つて、同種事故を防止している実情である。
3、然し、この場合も事態の局部的解決にとどまつているからして、ひろく社寺行事主催者の警戒心を促す契機とはなつていないと考えてよいだろう。
4、そうだとすると、弥彦事件以前には群集による圧死等の事故に対する恐怖心、警戒心は未だ十分に普及していたとはいえないのではなかろうか。その理由は事故原因の一般的な共通性に対する認識が十分に開明されていないことにあると思う。
5、このように見て来ると、本件のような事故発生の可能性につきその予見に最も迫りうる地位にあつた、そして又その予見が法律上の義務であるとまで考えられる警察当局が、神社側との警備打合せにおいて極めて不徹底であつたこと、従つて雑踏警備の要点を誤つたこと(若し圧死事故を予見し得たら警備の重点をこの方面にきりかえたであろうことは理の当然である)は、まさに、右のような事情に由来するのであろう。
6、二重橋事件以後、前記要則の制定公布に際し、現地担当警察官に群集災害防止に関する講習会とか特別の教育を授けたという形跡はなかつた。
7、結局、本件において警察側が予見しなかつたのは、単にその不注意の結果であるとすべきではなく、予見ができなかつたか、少くとも予見が著しく困難であつたことの証左であると見るべきではあるまいか。
(三) 弥彦事件以後の事例
1 当裁判所は弁護人の申請に基き四例につき調査をした。いずれも不起訴、或は不立件に終つている。(2)の事例を除き弥彦事件の影響が顕著に現れている。警備当事者は群集の整理方法に肝胆を砕いているのである。而も、事の本質に照しその警備或は群集対策が適切であるとは謂い得ないようだ。
(1) 西大寺事件
昭和三十一年二月二十六日午前二時頃岡山県西大寺市、西大寺会陽(通称裸祭)に際し、神木が仁王門外にあると考えた裸群が大挙して境外へ出た際通行中の参拝者が、これに押されて倒れ負傷者四名を生じたが、内一名は老病者であつたため約四時間後に死亡し、この者には外傷はなく「強度の病後衰弱」による死亡と診断された事案である。参拝者の極く一部が、神木を追う裸群の勢にあおられ動揺した際の転倒事故である。この事件自体には本件公訴事実との緊密な関連性は認め得なかつた。
然し、西大寺本堂の「大床」(床面積約一〇〇坪)において神木投与の際、裸群が一升桝の底面積につき一人の割合といわれる高密度を作つて神木を奪取しようと犇きあう有様は、その裸の皮膚から湧起ち堂内一杯にたちこめるもうもうたる湯気の中で壮烈を極めるが、万余の裸群と雖も、一見乱斗の如き揉み合いと雖も、成員にその用意あり心構あり、その成員間にルールがあれば、成員間における負傷等の事故は皆無に近いことが認められた。(証拠物「会陽」写真帳参照)
この西大寺会陽行事は遠く数百年の伝統を有し、参拝者もしくは見物人は、例年十数万乃至二十万といわれるが、その警備陣容は昭和三十年度の二一四名に対して昭和三十一年度は実に四三〇名であつて、それ以後例年その数は大体変らない。従来一度も群集事故を経験しなかつたのに、警備力を倍増したのは、弥彦事件の影響である。
(2) 大阪劇場事件
昭和三十一年一月十五日午前八時四十五分頃、大阪市南河原町大阪劇場で美空ひばり等の実演興業が行われるに際し、劇場前で十名の死傷者が発生した事案である。多数の来場者を予期した劇場側では早朝から行列整理のため柵を設けロープを張り二つの出札口を先頭にこの柵とロープの間に二列に並ばせていたのであるが、行列は刻々に伸びてゆき、午前八時半開場の時刻には延々二百米余の長さに及んだ。出札は始まつたが、窓口が二箇所に過ぎないので右八時四十五分頃までに六〇〇名程度を消化したに止まり、行列は遅々として進まなかつた。恰度そのとき劇場前で列中に蛇の屍体を投げこんだ者があり附近の者達が之に驚いて悲鳴をあげ、前後左右に之を避けたため列間に空隙を生じ、そこへ後続者が我がちに殺到したため、列中転倒者を生じその場に将棋倒しとなり、一名が圧死し九名が負傷した。
この種の観客は頗る熱心なもので、場合によつては切符入手のためには徹夜も辞さないのであるから、切符の発売方法には劇場側も頭を痛めるに違いない。
然るところ、戦時中の統制物資受給の際の遺習もあつてか、行列を組むことには一般に柔順であるので、切符と座席とを公平に安価に入手せしめる目的から、来集者に対してこの種整理方法が自然にとられることになるのだろう。このとき整理に当つたのは職員数名のみであつて、劇場側には、もとより弥彦事件の例など念頭になかつたし、之を相互に関連づける筈もなかつた。然し、我々は、群集の進行途上に阻止線(このときは転倒者)が生じ、後続者が前進運動を続け、押圧を加えることを止めなければ瞬時にして事故が発生することに注目すれば足りる。
(3) 和歌山市民会館前事件
昭和三十二年二月六日午後六時頃和歌山市民会館において美空ひばり一行の歌謡大会が催された際少女二名が胸部圧迫傷、大腿部打撲傷等の負傷をした事案である。このときは、前年の大阪劇場前事件の例に鑑みてか、会館側、所轄警察署、興業者の三者が事前に協議を遂げた上、警察官が一〇八名も出動して警備に当つていたものである。
午後六時開場の第三回公演に入場しようと午後一時過ぎ頃から来集した人々は、同館入口を先頭に附近の道路上に四列縦隊を組まされ、この行列は開場の頃は街角を幾重にも折れ曲つて延々五〇〇米に及び、行列者の数は約六、〇〇〇名に達した。ここにおいて隊列後尾の者は入場できないことを虞れ、開場が始まり隊列が前進を始めるや列の秩序を乱し前方に押し進んだため混乱を生じ、これに因つて押したおされた前記二名の者が負傷した。
このように長大の列を作り長時間一箇所に停止佇立させ列中者の行動を拘束しておくと、開場により前進する隊列が伸び縮みするときに、自ら生ずることのある僅かな空間が、進行の遅々たることに焦だつている後方列中者を誘惑して急激危険なる運動を開始させるのではあるまいか。
(4) 山王体育館前事件
昭和三十二年五月十八日午後二時二十分頃秋田市川尻所在市営山王体育館において雪村いずみシヨーが開催された際その正面入口で七、八名が肋骨亀裂等の負傷をした。
当日第二回目の入場者は六、〇〇〇名と予想されたので、入場の際の混乱を防止するため、主催者側と警察側が協議の上、正面出入口八ケ所のうち向つて左側の四ケ所を閉鎖し、右側四ケ所の各入口前に四列に入場者を並ばせ入場の際には警察官等の誘導で入口手前において四列を二列にかえて入場させる、そのときの割込による混乱を防止するため、各入口の両脇に長机を一箇宛置き、その傍に入場券の半券受取の係員を配置することにした。
右打合せに基き正午頃から来集した入場者を四ケ所の出入口を先頭に各四列に並ばせ、列中の各所に警察官及び整理係を配置した。午後一時二十分頃第一回公演が終つたが、それより約三十分前から第二回の入場者に対し拡声器で入場の際は各入口で二列になること、割込者は入場を拒否すること、入場者は切符を各人持とすること、出入口に敷居があるので足許を警戒すること等を注意した。
行列者は入場開始前は整然と並んでいたが、午後二時頃入場が開始されるや各列共最前部の二十人目位までは順調に入場したが、このとき後に続く一部の者が係員の制止を退け、列を乱して入口に殺到したので同所は混乱に陥り、右から二番目の入口通過中の入場者の一部が長机の足や散居に躓いて倒れ、それに続く一団が折重なつて転倒し、七、八名の者が前記のような負傷をした。
この場合、来場者整理の方法には大いに進歩改善の跡が見られるが、それにもかかわらず、この事故発生を見たことは群集統御の困難性を示すものである。
2、このように見て来ると、群集の性質を興業等への来集者に限つて見ても、その統御は極めて困難なことが判るし、一方、来集者の目的を考えれば、徒らに人来集するところは警戒を要するといつた警戒万能論が策を得たものであるかは、疑問である。
特に西大寺の警備態勢は、弥彦事件の世間に与えた衝動を考えれば、人心を安定させるために無用とはいいえないけれども過剰警備であると考えてよかろう。
3、そして事故後の弥彦事件の二年詣りにおける警備態勢を見れば、このことは益々明らかになる。
事故当年をピークにして参拝者は激減している上に、神社側は餠まき行事を廃している。にもかかわらず、出動警察官の数は事故当年の三四名に対し昭和三十三年元旦のそれは一四六名である。境内一帯に亘つて実施している一方交通を確保するためには、それだけの勢力が必要であるとされるのかも知れないが、このことは事故原因についての無理解に皈因する無用過度の警戒を示すものというの他はない。
三、予見の能否
(一) 予見能否の基準
過失犯の過失の内容については刑法は之を明定していないから、その内容は解釈によつて定められなければならない。判例は、「而してこの罪となるべき事実の予見の能否は、行為の当時において一般通常人が認識し得べかりし事情及び行為者が特に認識し居りたる事情を基礎とし、その基礎の上に於て一般通常人の注意を払いて克く罪となるべき事実を認識し得べかりしや否やによりて定まる」(昭和四年九月三日大審院第一刑事部判決)とする。当裁判所は、この見解に賛成するが、この基準の適用を更に容易にするために次の解釈をとる。
(二) 注意義務と予見可能性の関係
1、過失犯の注意義務は法規範であるから、この内容は客観的に定まる。この規範の内容を定めるについては、恐らく結果から逆推して、結果防止の観点から合理的な当然を導き出すのが最も妥当な方法であろう。この当為が条理として広く承認されるに至れば、この規範は爾後法規範としての拘束力を有するに至る。
2、然しこの規範を当の事件に適用するについては、また別の手続が必要である。この規範は犯罪法である以上、事後法であつてはならぬ。既に我々の法社会において、我々の生活関係において法規範として通用しているものでなければならぬ。事後法であるか否かは、これまた客観的に定まるべきものである。つまり、一般通常人が行為者の地位にあつて、その結果を予見し得たか否かによつて定まるのである。これは客観的予見と名づける。過失犯における注意義務は、前述の如き方法によりその内容(結果回避のための行為義務)を定立され、客観的予見可能性の有無につき積極判断を受け、その予見により右義務の遵守可能なりとの判断を経て、始めて当該事件につき適用さるべき法規としての地位を取得すると謂うべきか。
(三) 客観的予見能否の基準とその判断
1、仮に客観的予見が可能であるとすれば結果の回避は極めて容易である。ある人は全くその目的たる行為を止めてしまうであろうし又他の人は結果防止の措置を構じつつ、その行為を遂行するであろう。ところが目的行為の遂行の遂行自体が社会的必要性、正当性に支えられているときは、目的行為の避止は遂に法的義務たり得ない。又法益の権衡において目的行為の遂行が圧倒的に優越するときは、これに伴う法益侵害行為はその違法性を阻却されることがある。この両極の間に法的義務が画定されるのであるが、ともかく一般人に法益侵害の表象が可能であれば、その防止も通常容易である。過失犯はその表象が可能であつたのに之を表象せず漫然法益侵害の結果を発生せしむるに至つた行為者の人格態度を非難するのであるから、まさしく、この予見の能否こそは、過失犯の骨子というべきであろう。
2、我々は、法が結果回避のためも具体的行為規準を明定している場合には、比較的安易に過失の存在を判定する。一定の慣習が成立している場合にも略々同様である。これら法規又は慣習の存しないときは如何。我々は条理によつて義務の存否を判断するという。この条理による判断は、具体的行為規準の規定を欠くことにより予見能否の判断と相俟つて二重の困難に逢着する。他方前二者の場合には殆んど予見の能否を問う必要がないので、後者の場合に比較して二重に容易である。
前二者の場合に、何故予見の能否が問題にならないかというと、結果防止のための行為規準の法規化乃至は慣習化のうちに結果予見の一般的可能性が前提されているからに他ならない。
3、検察官は昭和三十年十月の新潟大火事件と対比して主張する。「問題は、ある特定の場所から出火することの予見の可否にある。それが予見可能である限り、不注意でこれを予見せずして措置し、その結果、大きな災害まで発展した時には、その全部についても責任を負わなければならない。同様の理由により、被告人等に、果してあの計画と、その遂行の状況からみて、一人の怪我人の発生も予見出来なかつたであろうか。」
「又、回避の可能は、その蓋然性があれば足りるのであつて、それが確定的である必要はない。さらに、それは全体的である必要もなく部分的でもよい訳で、本件においては、一人の死者を減じ、又は重傷者のそれを軽傷者に変ずる可能性のあるものであればよいのである。」と。
4、新潟大火事件は、木造モルタル塗りの建造物にとりつけた外灯ソケツト部分の漏電から生じた失火事件である。外灯の金属製ブラツケツトを金属製のねじで直接、壁にとりつけたため、その先端が壁の内部の金網に接触し、漏電流がこの金網に走り、漏電回路の抵抗値大なる部分において発火し木摺部分が発火するに至つた事案である。ブラツケツトを取りつけるについては、木台を使用してねじ釘の先端が金網に接触しないように工作するとか、漏電流を地中に放出するためアース線を装置する等の義務ありと認められた。
5、この様な漏電事故と本件如き群集事故を同一視できるであろうか。一方は電気という物質であり電流という物理現象である。他方は群集という人間の集合体であり、群集行動という人事現象である。この対象の差異が判断に影響しないであろうか。電気の性質は大方の理解するところであるから、結果の予見が容易であるのに対して、群集については理解浅く、従つて結果の予見がより困難だといえないだろうか。
なる程、前年度の餠まき状況からおして、今年度の餠まきにつき餠まきに通常伴う程度の結果予想は可能であつたろう。被告人等がその程度の予想をしたこと自体は之を認めることもできる。餠まきに際して、餠を篝火附近に投げないように、餠をひろう人々の顔に餠が当らないようにと配慮した事実は、明らかに傷害の結果発生を予想して之を防止せんとしてとられた措置以外の何ものでもない。
更に進んで、餠まき開始の直前、直後の状況を見ては、この餠ひろいの群集中に転倒負傷者の発生を予見できたと認めてもよいであろう。然しこれに引続いて起つた群集行動がもたらした惨害についての予見の能否を問わずに、右の如き予見が可能であつた以上、予見義務を充足するといい得るであろうか。被告人等は警察側の救護施設ロープを張つての交通整理の提案を斥けているのであるから、この点は誠に重大である。救護班を設けて置けば被害は減少したであろうし、交通整理をしておけば、被害は宗全に防止できたかも知れない。
6、群集行動には、電流現象の如く一定の法則が働くであろうか。今一度事故発生までの経過をふりかえつて見ると次の如くなる。
餠まきは、花火が終るより早く、三分位で終了し、餠ひろいの群集はなおも餠まきを期待してか、俄かに動かずにいた。餠まきが終つたら、二年詣の性質上、普通であつたら正子の刻以後に大多数の者が今一度社頭に額いて祈念を献げたに相違ない。然し或者は、餠ひろいの人波にもまれて、不快の念を生じ或は危険を感じて直ちに餠ひろいの群集の圏外への脱出を計つたかも知れないし、又或る者は再度の参拝を望みながらも群集の前方、高密度部分に位置し、後方者が動かないために直ちに皈路につくことにしたでもあろう。それに人間の歩行速度が遅くとも毎秒〇・八米であるとするならば、境内の広さから考えて、再度のお詣をりすませて門外に押し出ようとする勢力に復皈するのに数分を要しないこと明らかであるから、眼前の随神門をくぐつて出ようとする群集行動が開始されるや、この群集が自然に解消される契機は最早存しなかつたといえよう。この群集に対して門外の群集はこのとき既に石段上から門内一部にかけて門内群集と対峙線を形勢していたのである。門内群集は、門外群集に比して密度も高く勢力も大であつたから、はじめはじりじりと後者を押し戻し、前向きの門外群集が押されながら石段で足を踏み外して転倒すると、今度は激しい勢で之を追い落し、自らも転倒し、石段下から石段下部にかけて人山を築いた。人山の上部の者外縁部の者は急いで退避したでもあろう。中心部で下敷になつた者は踏みしだかれ、無力化し、そこに障壁を作つた。これが門内群集進行途上の停止線を形成する。後方からの押圧が止まないので、次第に下段附近の密度が高まる。その中心部の者が無力化し、失神者が出るのにいくらも時間はかからない。押圧は最強部で実に三〇トンを上廻るからである。かくて脱落者が出ることによつて、二次、三次と人雪崩が起きる。列中者には気力を失う前から既に前後左右の者にその身体を托している者もいる。偶々石段脇に死力を奮つて脱出する者がいると、その空隙を埋めて人雪崩が生じる。
裁判所は、最初の現場検証に際し、その高からざる石段の両脇に広濶なる平地の存するのを見て、遭難者が石段から両脇にとびおりて避難しなかつたことに奇異の念を覚えた。ところが、脱出者はあるにはあつたのである。然し、石段一杯にひろがつて、じりじりと押し下つて行く高密度の群集中にあつては、そのすさまじい圧力に翻弄されて脱出の分別の湧かない者も多かつたであろう。脱出には特別の努力を要したのである。そして脱出者があればそれが又人雪崩の原因になつた。
当裁判所は、列中者の供述、証言等により事故発生の過程を追跡しながら、群集中の成員が著しく物質化していることに気付いた。そして物質化の現象が確かであればそこに物理的な法則が働くであろうと考えた。然し、この種の事故をそのままの形で再現し、実験することは不可能である。何等かの定則が存在するにしてもその実体の把握は極めて困難である。群集行動を規定する因子は心理的因子から物理的因子まで多様複雑であつて、これを研究することは専門家の領域以外の何ものでもない。そして文部省建築研究所技官戸川喜久二氏は数少い専門家の一人である。同氏の見事な事態解明は前にその一端を掲げたとおりである。同氏は夙に種々の雑踏を実地において観察し、之を計測して群集行動の法則を探究し、群集災害の防止をその応用部門として来られた。交通機関の発達、人口の稠密化、社会構造の変化、これに伴う人心の変化によつて我々は種々雑多な雑踏に関係せざるを得ない。そして今の時代が、強権によつてよりは説得により、教育によつてこそ群集災害の防止に効果を期待しうる時代であることを考えれば、群集流の研究、群集行動の研究は、今後とも大いに推進されねばならず、又その研究は豊富な稔りを約束されているといつてもよいだろう。
7、然し、このように述べても、群集行動の性質が科学的に究明されそれが法則化されなければ、注意義務を課し得ないというのでは決してない。そのことは望ましいことではあるが究明といい、法則化といい、その程度は相対的なものである。完全な目標に到達することはあり得ない。我々は真理に接近するのみである。従つて我々が原因から最終結果に到達するためには、その中間過程を省略することも不可でない。原因と結果を直観によつて結合することは一向に差支えない。その直観が、客観性を有すれば、その理由づけ、説明すら必要でない。我々は直観によつて把握した法則を以て注意義務の根拠とすることができる。その故に、「二度、過つ者は罰される。」経験が人を教えるのである。その教訓に耳を藉さない者は非難されるのである。今、弥彦神社において、同種の条件で同様の事故が再び発生したなら、関係者は悉く非難を受けるであろう。群集の成員自体も例外でない。
然し、その個人的局所的体験の結果を以て、未経験者を律することはできない。未経験者を律するためには、どうしても右の個人的局所的経験が、或る程度普遍化され、社会の共有財産となつていなければならぬ。弥彦神社の二年詣りは、従前から雑踏を続けて来たのに、この雑踏を自然解消に委ねても事故の発生はなかつた。この水準において群集災害の恐ろしさを認識し、従つて又その対策を講ずることは不可能であつたというべきではあるまいか。
8、弥彦事件以後我々の社会が共有するに至つたのは、我々の社会に普及するに至つたのは、群集災害に対する一般的警戒心、特に警備担当者の過度の警戒心である。過度の警戒心は警備担当者自身の心身の精力乱費であり、過度の警備はその警戒に要する諸々の国費、公費の消費である。そして又この過剰警備の現象は、群集行動に関する理解の不足に起因する。
9、今や、弥彦神社において、それ自体は何の変哲もない地形においてそれ自体は極めて平凡な行事に関連して、一二四名の圧死者を出すという大惨事を現出した。そのことが一般的警戒心を生んだ、ここに群集災害発生の一般的条件如何という視点が生まれた。この視点からして、過剰な警備体制が各種行事に普及している。その基礎観念は、群集を滞溜させるな、雑踏処理には必ず一方交通を実施せよ、の二原則である。どちらかというと翼集を無用に滞溜させるなとの原則は新しく演繹された法則であるかも知れない。然しともかく、この二原則は従来から存在した。大規模な群集災害防止の特効薬としてこの視点から再認識された点が新しいのである。だが、この二原則を無差別に、無批判的に励行することは策を得たものではない。歴史の推移が、社会の変化が、尨大な群集を生み出し、この群集は必然的に物質化しこの群集の一員となるときは、個人はその個性を喪失する傾向があり、この群集を整理するのは、警備担当者の責務たるを免れないとはいえ、この方向は我々の社会が目指す方向ではない。群集がいくら尨大になつても、その秩序の維持は、成員各人の自治、自発の精神に期待したいし、この群集の統卒者、指揮者、命令者たる警備担当者にも、群集成員自体の自治自発の精神を馴致し、これに依拠するの用意と工夫とが望まれる。然し、このことは、一方において群集行動についての学理的研究の発達と、之に則つた合理的説得による社会教育の普及とに俟たねば、実効を期し難いであろう。
10、結局、客観的予見可能性は、一般通常人が、行為者の地位にあつて、その結果を予見し得たか否かによつて定まるのであるが、この判定は、終局において、事物の性質に関する知識の普及度に依存するといわねばならない。個人的、局所的体験の或る程度の一般化にかかるといつてもよかろう。
11、我々は注意義務を定立するに当つて結果からこれを逆推する。この作業は必要であり、妥当である。結果から原因に遡ることによつて、事件の経過を単なる時間的序列から、因果の系列へ整序する。そして行為者に、このような場合は危険であるから、かくかくの行為によつてその結果を回避すべきであつたと警告する。この事故の原因はかくかくである、原因は然く明瞭であるから、汝のなしたる行為の伴う危険について予見ができなかつた筈はない、という訳である。炬燵の火を消し忘れることの危険なことは判つているではないか、汝は炬燵の火を消しておくべきであつた。前段は客観的予見義務の違背を、後段は結果回避義務の違背を非難するのである。この予見義務が対象たる事物乃至事象に関する知識の普及性、一般性を根拠としていることは明らかである。そして、この普及性一般性という基準も元来極めて抽象的なものであるから、終局的には直観に頼らざるを得ず、その直観は、対象が複雑になればなる程誤謬を犯し易い。中でも現代社会が産み出した群集という人間の集団は対象のうちで最も複雑なものである。我々は日常群集の一員として種々の雑踏を経験する。我々はそれらの雑踏の同質性異質性を判断する基準すら持ち合わしていない。我々は群集の内包する諸々の性質については殆ど無知の状態にあることを卒直に認める弥彦事件以後に見られる群集事故に対する一般的警戒心のみが、我々の社会が新たに所有するに至つた共有財産であるというべきではあるまいか。
因果関係の追求がルーズになると、結果回避義務の立法も妥当を欠ぐことになり易い。その理由づけに合理性が薄くなり法規の受命者に対して説得力を失うからである。先に触れた「警備実施要則」が本件において実効をあげ得なかつたのも、茲に由来するといつてよいだろう。
結局当裁判所は餠まき終了後の群集行動を餠まき時における群集の行動と同一視して前者を後者の必然的発展なりとしこれを先の漏電失火と比較する検察官の見解に賛成することはできない。本件事故につき客観的予見が可能であつたとするには、群集災害に対する警戒心の普及と共に「徳利の口の如き出口の手前に群集を蝟集させ、群集を興奮させることは群集圧死傷等の事故を誘発する虞れがある」といつた程度の認識が、少くともこの程度に明瞭な形で常識化していることが必要である。
本件二年詣行事の関係者参集者中に、餠まき行事につき、一抹の不安を感じた旨の供述をなしている者もいるが、これは、凡て不吉な予兆を感じた程度と解すべきであつて、客観的予見可能の判断の根拠とするには足らないものである。
12、最後に主観的予見の能否は、注意義務と無関係であつて、責任条件に属するが、本件において之を論ずる必要はない。
第五、結論
群集災害の恐ろしさを予め知つていないときは、その対策をたてる等のことを期待できる筈がない。群集の内包する危険についての警戒心が普及し、群集行動の性質についての或る程度の認識が一般化し社会通念化してこそ、個々の事情をその危険との関連において意味づけ、危険の有無を予め判断することができる。単に参拝者の安全保護という抽象的観点からして、危険の有無の判断を導き出すことはできない。
本件において、被告人等が結果を予見することは、客観的に不能であつたと判断せざるを得ない。
予見が不能であれば、結果的には事故回避の方策が考えられても、その行為の当時においては不可抗力による災害に異ならず、被告人等に対し、検察官主張の如き注意義務を課することはできない。即ち被告人等の行為は罪とならない。
よつて被告人等に対し、刑事訴訟法第三百三十六条に従い無罪の言渡をする。
昭和三十五年七月十五日
巻簡易裁判所
裁判官 井 口 浩 二